top of page
特集記事

「自分らしさ」という名の、消せない呪縛。

  • 2月16日
  • 読了時間: 4分

「自分らしい写真を撮りたい」と、若手のフォトグラファーが口を揃えて言う。 その反面、SNSを開けば、誰かが作ったプリセットを当てただけの「エモい」画像がありふれ、浅い言葉での表現、新郎新婦は理由もなく走らされ踊らされ、変な質問攻め、横並びで呆然と立ちつくしてる姿、ただ見た目がエモいからオールドレンズを使う。 それが「個性」として消費されているのが今のブライダルフォトグラファーの現状。

だが、プロとして現場に立ち続け、泥臭い自己否定を繰り返してきた人間なら知っているはずだ。 「自分らしさ」とは、そんなキラキラした、主体的に選び取れるようなポジティブなものではない。

それは「付加価値」ではなく「残渣(のこりかす)」である

完璧に撮ろうとあがき、ノイズを削ぎ落とし、技術を尽くした先に、どうしても消せなかった「自分の偏り」。それこそが、自分らしさの正体だ。

ほんとに被写体と向き合ったとき、どれだけ透明になろうとしても、自分の中にある「消せない記憶」や「拭えないコンプレックス」というものがあるはずだ。 「自分らしさ」とは、意図的に作り出す「表現」ではなく、必死に隠そうとしても漏れ出してしまう「業(ごう)」のようなものだ。

膝を擦りむいた経験の「解像度」が、シャッターを切らせる

よく「相手の心に寄り添う」という耳障りの良い言葉を聞くが、そんなものはプロなら前提以前の話だ。そもそも「2人らしさを撮る」という言葉が薄っぺらく感じるのは、「今のあなたは、実はこうなんですよ」という押し付けにすぎない。 プロが撮る「鋭い一枚」とは、相手の性格を言い当てることではなく「本人すら気づいていない、その瞬間に漏れ出た野生的な何か」をすくい取る事だ。 これだ!と思う瞬間に脳内では被写体の状況と自分の過去の情動が同期している感覚で、これは前回のブログ内容と一致してること。 加工ではなくメイクで変わりゆく姿にワクワクする所や、緊張感のある一瞬から解ける瞬間の笑顔などファインダーをのぞいた時に自分の中にある「かつて見た美しい世界」「かつて感じた美しさ」などの自分の感性の辞書が呼び覚まされてそれが現在の被写体と重なった瞬間、「これだ!」という直感(降りてくる感覚)になる。

自分自身の深淵をどれだけ深く掘り下げ、その「質感」として持っているか。 初対面の被写体の中に、自分でも忘れていた過去のデータを見つけたとき、指は勝手に動くものである。 そこに「自分らしさ」という共鳴が生まれる。

流行という「逃げ道」を断つ

今、市場には「誰にでもなれるフィルター」が蔓延している。 フィルム風の色味、わざとらしいブレ、意図もないイメージ写真。 それらは、自分の内側と向き合う苦痛から逃れるための「仮面」に過ぎない。

プロが持つべき差別化の武器は、高価な機材でも、流行の現像技術でもない。 「自分は世界を、どういうバイアス(偏見)でしか見ることができないのか」という絶望を、どれだけ愛せるか。

「自分らしさ」とは、自由になることではなく、自分の逃れられない「視点の癖」を確信犯的に使いこなすことだ。 最後に、私がどうしても消せない「自分らしさ」について。

それは、流行という嵐の中で自分を信じ立ち続ける不器用さだ。 確かにビジネスにおいて流行り物で消費するのは思考も使わず誰でも真似できて正なのよ。 ただね、世の中が流行り物とゆう横一列の同調圧力とゆう安心感に浸っている間も、私はただひたすらに、本質的な「美」の純度を磨き続けている。

綺麗なだけの写真は、誰にでも撮れる。 だが、見た人の魂を揺さぶり、思考を一時停止させるほどの「驚き」は、自分の美学を一度も曲げなかった人間にしか宿せない。

「自分らしく」なんて言葉で、自分を甘やかすつもりはない。 私は、私という人間が信じる「美しさ」という呪縛を一生背負い、シャッターを切り続けるだけだ。 それが、私にとっての「世界と向き合う」唯一の作法だから。


コメント


最新記事
アーカイブ
タグから検索
ソーシャルメディア
  • Instagram
  • YouTube

Copyright ©KATSUYA MIKAMI All Rights Reserved.
 

bottom of page